平家谷 しょうぶ園       070701




7月1日(日)15:30、平家谷のしょうぶ園に向けて出発した。 緑の中をドライブしてみたくなった。

途中のポスターを見ると、しょうぶの時期を過ぎている。 まあ、いい、いくらか花が残っているかもしれないと車を走らせた。






            





芦田川を南下し洗谷T字路を右折する。 山南T字路手前を左折し、山南郵便局の前を進む。 ここから4kmあまり道なりに進む。

上地図の右下に小さな池と並んで神社マークがある。 それが、平家ゆかりの通盛神社だ。 さっそく、車を駐車場に停めて歩いてみる。





                          





通盛神社は「平家の宮」ともよばれ平通盛夫妻を祀っている。 建久3年(1192)の創建。

かつては数百メートル離れた平家の井戸あたりにあった。 花しょうぶ園の中にある平家の井戸は今も水が湧いている。






                
                                                  しょうぶ園に行ってみる、しょうぶはほぼ終わり





                             盛りを過ぎたしょうぶとあじさい





                





                





                





                





この平家谷と福山市加茂町出身の井伏鱒二との関わりについて、竹盛先生の書かれた一文を載せてみる。

しばし空想の時間をお楽しみください。






                              平家物語と井伏鱒二      広島大学附属福山中・高等学校
                                                            副校長  竹 盛 浩 二

井伏鱒二は現福山市加茂町に生まれた作家である。

彼の作品「さざなみ軍記」は、落ち延びていく平家の少年の物語である。 舞台はどうも「室の津」(福山市鞆の浦とみられる)に近い山あいで

あるようだ。鞆の浦には井伏も少年のころ、父に連れられて来ている。また、「さざなみ軍記」と鞆の浦について文章を書いていて、「さざなみ

軍記」の舞台イメージは、間違いなく鞆の浦である。

ただ、なぜその物語とその舞台とが井伏の中で結びつき、モチーフとなり、作品となっていったのか。

涌田佑が「"サフランの根"洗い」(井伏鱒二全集の月報14所収)という文章のなかで紹介しているその平家の落人の村を、ある日わたしは訪

ねて見た。

福山市の隣、瀬戸内海に突き出た沼隈半島の心臓部、広島県沼隈郡(ぬまくまぐん)中山南(なかさんな)横倉(よこくら)地区は、まさに神秘

的な平家の落人の村である。

道々には赤い旗が立ち並んでいる。これは地区の有志で作り上げた観光菖蒲園への案内の幟なのだが、いやがうえにも平家の赤旗を髣髴

とさせ、車を走らせながらしだいにタイムスリップしていくのである。

はじめに目にするのが文字通りの「赤旗神社」である。折しも赤い小ぶりのつばきの花が一面に散っていて、なんともいえない風情を漂わせ

ていた。

さらに車を走らせると、多くの平家伝説をかたちとして確かめることができる。谷の奥深く、その先の峠を越えれば鞆の浦に通じるのだが、そこ

には「通盛神社」がある。その境内の右の奥には通盛主従の墓があり、赤い幣が供えてある。緑に苔むした地面、哀れをそそる。

神社の右手奥の谷には、菖蒲園とツバキ園が整備されている。その中央には通盛手植えの松の株が残っている。史実では、通盛は一の谷

の合戦でなくなっていて、ここ沼隈の横倉には来ていないのだから、「手植え」というのはどうみてもおかしい。そこの茶店で出会ったおじいさ

んは、このような伝説にもとづく町おこしに疑問を抱いていて、その矛盾に憤慨する。けれどもその怒りは、平家ゆかりのこの村への強い愛着

の故なのである。たしかに、ここには、落ち延びてきた平家の息づかいが感じられる。この横倉の谷では花は赤い花。白い花はけっして咲か

ない。そんな、不思議な話をいろいろと聴かせていただいた。暖かい白酒をご馳走になりながら、現実と隔絶した空想の谷間に、しばしの夢を

見ることができた。

「横倉」という地名は、平家の武者が乗った馬の倉が、谷が険しいために横になったというところから来ているらしい。峠を越えて海に向かうと、

能登原(のとばら)というところがある。能登殿(平教経 たいらののりつね)にちなんでの地名である。海岸線から陸に少し入ったところには、

教経弓懸けの松の跡がる。鞆の浦から能登原そして横倉の谷へと、瀬戸内海に突き出た沼隈半島全体が、まさに平家空間といった感じで、

その心臓部に、平家谷の横倉が位置しているのだ。

井伏の「半生記」という文章の中には次のようなくだりがある。

「私は能登原から阿伏兎観音の祠のある岬に出て、そこから岡を越えて鞆ノ津の方に行った。途中、坂の上から直下に当って、家が三軒しか

ない海辺の部落が見えた。そのわきの岬全面の麦畑がすっかり黄色くなって、......」

そこには穏やかな瀬戸の海のさざなみがひろがる。

井伏の生家がある加茂粟根の谷、その南に広がる神辺(かんなべ)平野、さらに福山の沖、さざなみきらめかせる瀬戸の海。井伏の中で「さざ

なみ軍記」が構想されるとき、この平家ゆかりの谷を内に抱え込んだ沼隈半島が、ひとつの心象プレートとして介在していたのではないか。

落ち延びていく平家の少年の物語。周囲を山に囲まれたような心理的鬱屈。そうした中にあっても抑えがたい少年の胸の高鳴り。平家落人の

赤い「谷間」に足を運んでみると、私の探知機は激しく反応するのだ。そこに、「さざなみ軍記」の心象プレートが、間違いなく眠っていそうなのだ。


                            

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