遺 跡 探 訪    091114


 先日、新聞の片隅に「ふちゅう歴史フォーラム・文化講演会」の記事を見つけた。

11月14日(土)14:00から。

地元の「大久保遺跡」、「山手古墳」、「千原古墳」など地元の古墳の発掘が始まって50年になる。

50年間の活動と研究成果を聞いてみたくなった。

 13:30、本職の仕事を片付けて職場を出る。

サンドイッチをかじりながら講演会場のクルトピア栗生に向かう。

「このような講演会に参加する人は少ないのではないかな?」とか、

40年ほど前、小学校から帰って発掘の様子を見学していたことを思い出す。

なんとか、14:00に間に合った。駐車場は車でいっぱい、参加者の多さにびっくりする。


    






上地図の遺跡はすべてではない。地図に載ってない遺跡もかなりある。

我が家の田んぼや畑は、城山古墳群の南から山手遺跡群にかけて散在している。

幼少のころ、農作業の手伝いをしていると、よく弥生式土器が出てきた。

割れた土器片がほとんどだが、時には完璧なものも出土したことがある。

完璧なものは今の湯のみ程度の大きさのものしかなかった。今でも大切に保管している。

こうして今、地図を見ると当時農作業の手伝いをしていたのは遺跡群・古墳のど真ん中ではないか。

出土品が出てきて当たり前の環境だった。当時、自分は土器片を集め「これは届け出ないといけないのでは?」

のようなことを言うと家の大人たちは、「これを届け出ると、調査が始まり何年もの間、農業ができなくなる」と

教育委員会へ届け出は、しなかった。


    


これ以前に近所の人が出土品を届け出て、そこが山手遺跡群とわかり、そこにある我が家の田んぼも耕作

できなくなった経緯があったらしい。当時は調査期間中の農業に対する保障制度がしっかりしていなかったようだ。

大久保遺跡の発掘から10年あまり遅れて城山古墳群の発掘が始まった。

城山古墳群には学校から帰ってよく見学に行った。夕方になり調査団の人たちが帰ると、規制ロープから中に

入り自分たちが独自の調査?をしたことを憶えている。

(当時、小学生だった自分たちには、いけないことだという認識があまりなかった)

出土した箱式石棺の中にある赤色に染まった人骨を見ながら小学生なりの考察をした。


          
              山の神第1号古墳(城山第1号古墳と同時期のもので合葬・朱色の頭骨は同じ様式)


合葬されている2体の人たちの関係について、「親子だ、いや夫婦だ、兄弟だ」とか、

年齢について、赤い色について「赤く塗って埋めるのか、後から塗りなおすのか」等々話したのを憶えている。


今日の講演でこれらの研究成果も聴くことができた。

○合葬について
   箱式石棺の中に複数の遺体が葬られている例は数多くあり、府中市内でも用土町の城山第1号古墳の
  ほか山の神第1号古墳などがある。遺体の並べ方には、頭を同じ方向に向けたものと逆さまに向けたものが
  ある。性別は、男性と女性を合葬にする場合が多く、従来は夫婦と考えられていたが、最近の研究では兄妹
  や姉弟など血縁関係にあることがわかってきている。複数の遺体を葬る場合は、前の遺体を整理して次の遺
  体を葬る追葬が行われていることもわかっている。

○頭部の赤色について
   人骨の頭部が赤く塗られているのは、遺体が白骨化した段階で顔料が塗られたことを示している。当時の
  風習や人々の死者に対する感覚がうかがえる。

○備後地方の箱式石棺について
   備後地方南部では「箱式石棺」が盛んにつくられている。石棺という形式と花崗岩の地山に掘り込んだつ
  くり方のため、人骨が残りやすいのが特徴である。出土した人骨を分析することで、当時の社会状況や家族
  のあり方がわかってくる。

○この辺りの古墳・遺跡について
   府中地方芦田川南側の遺跡・古墳については現在の神宮寺あたりから広がってきたものらしい。また時代
  は、弥生時代から古墳時代のものがほとんどである。


小学生の頃の夢は考古学者になることだった自分にとって、40年前の城山古墳の発掘現場と今日の「ふちゅう

歴史フォーラム・文化講演会」の内容がリンクし大変興味深いものだった。

小田原先生(府中市文化財保護審議委員)ありがとうございました。



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