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家族から、「今年は祖母の17回忌の法要をしなければならない」と聞いてはいた。 祖母の命日は、平成8年11月16日だ。
故人の法要は、それぞれの年の命日までに行うことが大切なのだそうだ。 法要が命日を過ぎないように気をつけなければならない。
しかし、毎日の仕事に気をとられている間に17回忌の法要について寺の住職との打ち合わせを怠っていた。
気づくと、12月も中旬になっていた。 11月16日という命日は過ぎてしまったが、今年中に済ませなければ、さらにまずいことになる。
『亡くなったばあちゃんに怒られてしまう』と、1週間前に住職と連絡をとり、今日「12月23日の10時から」と、お願いしていた。
我家では、というか世間では、この17回忌は上げ法事という形をとっている場合が多い。
普通、「上げ法事」とは、当家の者だけ寺で供養して墓参りをして終了する。
親族に参列してもらい、みんなで食事をして引き出物をするということはしない。 しかし、この「上げ法事」はしない方が無難らしい。
ネットなどには、『初めての法事で上げ法事など、言語道断だ』とある。
一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、三十三回忌、五十回忌、通常五十回忌で故人は成仏されるらしい。
我家では、十七回忌を上げ法事にしている。 その他の6回は普通の法事を行っている。
自分の父親は、48歳で亡くなった。 自分が二十歳の頃だった。 父親の法事は、三十三回忌まで行っている。
あと一回、五十回忌の法要をすれば父親も成仏してくれることだろう。
それと、今回の祖母の十七回忌、今後の三十三回忌、五十回忌があり、祖父の五十回忌も残っている。
そのうち順番でいけば、現在80歳が近い母親の法要も入ってくるのだろう。
しかし、この忙しい生活の中で、しかも多額の費用がかかる法要を続けていくのは大変だ。
それと、忙しい中、親族のみなさんに遠方から参列してもらうことも迷惑になるのでは、と気が引けてしまう。
今後、もう少し上げ法事に変更することもありなのではないかとも思う。
しかし前述したように、一方では、上げ法事はしない方がよいとする考え方もある。
法事という法要行事は、「故人が親族一同の絆を再確認するための機会を置き土産として与えてくれたものだ」という考え方がある。
「親族は、何年かに一度は顔を合わせることによって絆を確認できる。 顔も合わせなくなると他人と同じになってしまう。」ということらしい。
う〜ん、確かにそうだ。
曾祖父の弟が二十歳代で姫路に分家をした。 その約六十年後、自分が中学生の頃、姫路の親族数十人がバスで里帰りしたことがあった。
その頃の曾祖父の弟は、かなりの高齢であった。 彼は、数十年も前に亡くなっている。
彼の葬儀には甥である祖父が参列したらしいが、毎回の法要には参列したとは聞いていない。
現在では、曾祖父の弟の子孫は十数軒に増えているらしいが、詳しいことはわからない。 当然、子孫のみなさんの動向は、分からない。
ただ、曾祖父の弟の息子さんと十数年前まで季節のあいさつハガキの交換は続いていた。 現在では、それもなくなった。
その息子さんも亡くなられたのだろう。 その子孫の方からは、もう法要などの連絡もない。
やはり、何年かに一度は、法要行事などで顔を合わせ絆を確認することは大切なのだと思う。
しかし、いろいろ思いをめぐらせていると、分からなくなる。 3世代も4世代も昔の付き合いを続けていると、これも大変だろうと思う。
世代を重ねていくと、冠婚葬祭の付き合いは、ある程度自然消滅していかないと、「こりゃ、やっとられんわ」となってしまう。
姫路の曾祖父の弟さんの親族のみなさんは、賢明な判断をされたのかもしれない。
しかしいつか、このような家と家の付き合いは無しにして、姫路の親族のみなさんと一献傾けてみたいと思う。
また、近い世代の分家として父の弟が東京に分家をしている。 最近、自分が忙しさを理由に叔父との時間を持てていない。
叔父も高齢になった。 また、ゆっくり東京を訪ねて叔父とその息子さん家族との時間を持ちたいものだ。
我家の直接の分家は近所に3軒ある。 1軒は明治時代の分家、他の2軒は江戸時代以前らしいがはっきりした時代や世代は分からない。
しかし、近所どうしなのでいつも親しく付き合いをさせていただいている。 昔ながらの助け合いの関係が続いている。
どちらかというと我家がいつもお世話になりっぱなしなのだが・・・。 近くにあると、法要行事などに限らずいつも顔を合わせて絆を確認できる。
絆というか、自然ないい関係になっているような気がする。 みなさん、今後ともよろしくお願いします。
さて、今日は10時から祖母の17回忌法要をお願いしている。 10分前に寺に着く。
法要に必要なものを寺の庫裏へ届け、住職に挨拶をする。 本堂へ移動する。
本堂は、もちろん畳の広間だが、高齢者のみなさんが膝を痛めている方が多いため、参列者用にイスが準備してある。
この山門は1600年代に建てられたものらしい イスが準備された本堂は暖かい
席について待っていると、住職が盆で茶を持って来られる。 「これは吸茶です、どうぞ」と。
畳に座り直し、吸茶を前にする。 住職「ふたをずらして飲んでください」と。
蓋をずらして、そのわずかな隙間から出てくる茶をいただく。 懐かしい香ばしい味だ。 蓋を開いてみると焼いた米が入っている。
吸茶 中には焼き米が入っている
お菓子は、ここのお寺のオリジナル煎餅をいただく。
やがて、袈裟を身につけた住職が着座し、お経が始まる。
住職の前には、今回つくっていただいた祖母の卒塔婆と我家の仏壇から持参した祖母の位牌が置かれている。
お経は、一緒に唱えることはできない。 ひたすら神妙に聞く。
この本堂の中は、ガスストーブの暖房が効いている。 イスに着座しているので足が痛いなどの感覚もない。
この状態でお経が続くと眠気が襲ってこないだろうか? などと考えていると、17年前に祖母が入院していた頃を思い出す。
祖母は、晩年何度も入退院を繰り返していた。
まだ入院が慣れっこになっていない頃、これから入院するために家を出るという時には、玄関で立ち止まり涙を拭っていた。
手塩に掛けた盆栽のことも気にしながら、重い足取りで車に乗った。 自分の病状にも不安を感じていたのかもしれない。
しかし、入院する度に良くなったり、痛みが治まったりして退院してきた。
最後の入院の時には、『病院は、ええ。 暑くも寒くもない。病院がええ。』と躊躇なく病院へ向かった。
入院してまもなく、医者から家族に、もう余命がながくないことを告げられた。 祖母は、ずっと寝込んでは時々目覚めるような状況になった。
その頃、東京から父の弟(叔父)が来て祖母に付き添った。 自分も土曜日には叔父に替わって祖母に付き添い病院に泊まった。
ある日の早朝、目が覚めた祖母は、大きくため息をついて、「なんと・・・・死ぬいうものはのう・・・・」と、つぶやいた。
それは、独り言のようにも、自分に向けて言ったようにも聞こえた。 しかしそれを祖母に聞き返すことはできなかった。
それから、また寝込んだり時々目覚めたりしながら、数日後に眠るように亡くなった。
お経が終わった。 次に、般若心経・・・追弔和讃・・・無常和讃・・と続く。
これらの部分は住職と一緒に唱えられるところは一緒に唱える。
約30分、無事17回忌法要が終了する。 次に、卒塔婆を墓地に持参し置いておく。
祖母の17回忌法要は、命日までに行うことはできなかったが、なんとか今年中に終えることができた。
『ばあちゃん、そっちは暑くも寒くもないんか? ええなあ。 33回忌法要は遅れんように盛大にするけえな』